僕が競馬を知ったのは、中学校の時。1994?1996年は最盛期だった。
競馬のゲームが流行りだし、血統だの産駒だの距離適正がなんだのと言うことを中学生がしゃべっているこの頃だった。あの頃は、アホの塊。ゲームの中の馬にほれ込んだ時代。
ゲームをしているうちに、友人たちがあの馬が良い、あの馬は伝説だ・・・と言う話になっていった。トウカイテイオー、シンボリルドルフ、オグリキャップ、ナリタブライアン、マヤノトップガン…
種牡馬は、サンデーサイレンスがノーザンテーストの勢いを覆す前だった。もちろん、リアルなところゲームのところとがごっちゃである。
だが、本や雑誌を買うようになり、いろんな馬の物語を知るようになっていった。その馬たちの中で、僕らしい馬と出会う・・・
「タマモクロス」 牡馬 葦毛タマモクロスのデビューしたのは1987年。つまりは現役引退している馬を好きになった。
どこが好きなのか・・・それは、その生き様だ。

過去の日刊フジより
◎奇跡は人が起すもの
1987年3月1日。貧弱な体の芦毛馬はデビュー戦(阪神・芝2000)を逃げまくったものの、7着。2戦目は4着、初勝利は3戦目の未勝利(阪神・ダート1700)だった。4戦目の父内国産400万では前の馬の落馬に巻き込まれ、初戦から手綱を取る南井克巳を落としてしまい、続く札幌戦も6、2着。帰厩した秋の阪神戦も3、3着。ここまでの成績は〔1.1.2.4〕。ごくごく平凡な馬だった。ところが、10月18日の400万(京都・芝2200)でタマモクロスは後続に7馬身差の強いレースぶりを見せ付けて、多くのファンに次走の期待を持たせたのである。
約束通り11月1日の藤森特別(京都・芝2000)は三角から先頭に立つと、あごを前に突き出した独特の走法で柔軟な筋肉をリズミカルに躍動させて8馬身も後続をちぎったのである。
◎強い馬が強くなるのだ
「1升枡は1升枡」という厩舎言葉がある。もともと能力のある馬がさまざまな弱点を矯正なり解消して成績を上げることはあっても、能力のない馬が強くなることはない。その馬のスケールを容量で表現する言葉なのである。とするなら、タマモクロスはなぜ4歳秋までは弱かったのか?
小原調教師の話しからは、他馬を怖がったり、飼い葉を食べない馬で、牝馬のようだったという。飼い葉食いは引退するまで細かったが、芝の長い距離に適性があったことと、レース経験を積むごとに勝負根性が加わったことが変身を促した要因だろう。
産まれたときの下馬評価額は500万円という安値。父シービークロスにも評価無し。
気性が荒く、体調も万全で走れる日はなかったという。
シャイで他馬を怖がり、奥手な馬だった・・・
若かりし頃は、全くダメでも、地道に力を蓄え、成人の年齢に達してから花が開く。
「白い稲妻」「白い猟犬」などと名づけられ、這い上がっていく様は僕にとって勇気をくれた。
ライバルはオグリキャップ。二頭の壮絶な叩き合いを制し、天皇賞を制した。
伝説である。
大器晩成。
一番後ろから他馬を差し込んでいくスタイル。追い込み。
長距離ランナー。
そんな競走馬に、自分を映しこみ、僕は、勝手ではあるが大器晩成型と思うようにして頑張ってきた。
勉強はできないが努力を覚え、地道に行くことを覚えた。
いじめられっこで奥手で弱気で非力な僕は、今、福祉の仕事で第一線として頑張ろうとしている。
地域の為に、ボランティアもやろうとしている。
今、僕は30歳。ようやく晩成型の花が開く。そして、一番後ろから皆を差し込んで行こうと思う。
2003年4月10日4時45分。タマモクロスは静内町アロースタッドで腸捻転のために急死、19歳だった。
2001年の夏に僕は、一人旅をして、静内町で念願のタマモクロスを見た。それから2年で星になっていたのだ・・・

力をもらったのは、人だけでなく、身近な存在でもなく・・・
ひょんなところからもらうものなんだなぁ・・・
☆1988年度代表馬☆
タマモクロス 1984.5.23生 牡・芦毛
馬主………タマモ(株)
生産牧場…新冠・錦野牧場
調教師……栗東・小原伊佐美
通算成績 18戦9勝[9.3.2.4]
主な勝ち鞍 天皇賞・春(1988年)
宝塚記念(1988年)
天皇賞・秋(1988年)
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